友の声が聞こえる
 川口龍也さん
 長崎市の原爆落下中心碑の前で、川口龍也さん(66歳)は語り始めました。非核の政府を求める長崎県民の会事務局長です。
 「非核の政府をつくるのが私の仕事、生活のすべて。今も原爆で死んだ友だちの声が聞こえるとですよ」

 被爆した日本共産党員にとって、「核兵器廃絶」が党の綱領に掲げられているのは最大の誇りです。自分の任務そのものなのですから。

 あの夏の日、小学三年生でした。長崎駅の東側にある五社山の神社で、友だちとセミ捕りに夢中になっていました。爆音が聞こえた瞬間、「ピカッ」と閃光が走りました。無意識に塞いでいた目をそっと開けると光景は一転。回りにあった石の玉垣は倒れ、眼下にあるはずの長崎駅や周辺の町並みは真っ黒で見えません。「グオーッ」という地底からの異様な音だけが、不思議に脳裡に残っています。

 近所に住んでいた従弟(いとこ)は倒れた家の梁(はり)の下敷きになって即死。親の手伝いで米を買うため店先に並んでいた友だちは、黒こげになって二日後に死にました。
 今も大橋の野球場付近を通ると、川岸で真っ黒に折り重なった無数の遺体が目に浮かびハッとします。「忘れたくても忘
れられないし、忘れてはいかんことですよ」

 日本共産党の一員になったのは二十五歳の時。働いていた県庁での組合活動やサークル活動がきっかけで科学的社会主義を学び、戦前から平和のために人生を捧げてきた人たちがいたことを知ったからです。生活の出発点は平和。活動の原点は戦争反対。「自分の生活と、被爆者としての生き方が一つに重なったのは偶然ではありません」

 うれしかったのは一九八五年二月、世界十二カ国の反核平和代表によって発表された、被爆地から核兵器廃絶を訴える「ヒロシマ・ナガサキアピール」です。「大雨でしたが、アピール発表集会の会場は満員で熱気にあふれました」 それが「非核の政府を求める県民の会」の結成(八七年七月)へと続きます。草の根からの運動なくして核兵器はなくせない。被爆地でこそ必要な運動だと心底思いました。

 自治体が住民の安全を守る立場から、核兵器の製造、持ち込み、通過を認めない「非核宣言自治体」の県内100%は九九年に達成。その後の「核廃絶国際条約」を求める自治体決議はこの一年間で前進し97.・5%に達しました。「非核県民の会」のボランティアとして県内を回った時、ある町の幹部は「以前とは違う、共産党がやっていることでも正しいことはやらんといかん」と話し、積極的に応じてくれました。

 「ようやく自分の役割の一つが果たせたと実感しています。死んだ友だちが後押ししてくれたんです。しかし運動はまだこれからですよ」