戦後最大の謀略事件といわれる松川事件(一九四九年八月におきた列車転覆事件)で、最高裁判決での無罪判決を求め、沼津から東京まで行進したのが日本共産党との出会いでした。

 「足にマメができても懸命に歩き、どんなトラブルでも先頭に立って冷静に対応する党員の姿に心を動かされてね」

 教師のあり方でもスジが通り、自分でも納得できたのが共産党の路線でした。「だから、子どもたちを相手にここまでがんばってこれたんですよ」と振り返る林田菊二さん(71歳)。

 「子どもたちはかわいいね。『札付き』といわれる転校生を何人もみてきたけど、みんな立派になって今でも手紙をくれます」。十年ほど前、警備会社に勤める教え子から頼まれて断れず、工事現場の立ち番を七年間続けたこともありました。

 そんな中でも、子どもたちに被爆を語る気にはなれませんでした。原爆と遭遇したのは長崎師範一年、十四歳でした。爆心から一・五`にあった学校(長崎市昭和町)でテスト前のオルガンの練習をしていた時です。ガラス窓が真っ赤になり、「ドーン」と鈍い音がした瞬間、左の頬に熱線をうけ、気が付いた
ら頭の後ろから血を流して倒れていました。今でも頭の中にガラス片が刺さったままです。

五十歳を過ぎたころから体調不良が続き、昨年暮れに「白血球が異常に増えている」と医者に言われました。「原爆のせいじゃないか」と、ずっと不安がつきまとうようになりました。そのころです、赴任校で全校生徒に被爆体験を話してほしいといわれ、初めて話したのも。

 「党員教師であっても、本当は話したくなかったんですよ」。内臓がとびだした人、真っ黒に焼け焦げた姿、まだぴくぴく動いているんですから。身体中をはい回るうじ虫。全身の皮膚がただれ血がしたたる…。「あの悲惨な光景が現実の姿になってパーッと目の前に浮かんでくるんです」。でも、「少しでも子どもたちに話をしとかんばいかん」と思い、ポツリポツリ話し始めた被爆体験でした。

 定年を前後したそのころ、「ヒロシマ・ナガサキアピール」署名が大きく広がっていました。一生懸命取り組み、「核兵器をなくすためにはやっぱり世論だ」と思えるようになりました。それからは、子どもたちを相手に語り部をしたり、地域の子どもたちに昔ながらの遊びを教えていっしょに楽しんでいます。 
「若いあんた達が平和のために声をあげんばいかんよ。友だちやお母さんにもきょうの話を伝えて」と、必ず署名への協力を訴えます。

 大浦診療所の「健康友の会」が、地域で開いている「子どもまつり」はもう四回目。その実行委員長として、竹馬や竹とんぼなどの遊びを通して子どもたちといろんな話をします。
 子どもたちが、「どうしてそがん上手にできるとね、来年もお願いします」といってくれるのがうれしいのです。
 そんなとき、「この子どもたちに、二度とあの悲惨な思いをさせたらいかん」と、元教師の思いがわきあがってきます。
ポツリ話し始めた
 林田菊二さん